読書会のためのサルトル『存在と無』

 サルトルの『存在と無』は以前から気になっていたものの、手が出せずにいた。

むずいからである。でもネット上で解説を拾い集めることで、なんとなくの理解はできてきたかと思う。Wikiと苫野氏Blogに感謝である。

 ちょと書いてみよう。

⑴「即自」「対自」

存在と無』の重要なキーワードに「即自」と「対自」がある。

即自存在について、サルトルはまず次のように言っている。

「存在はある。存在はそれ自体においてある。存在はそれがあるところのものである。以上が、存在現象についての暫定的な検討によって現象の存在に帰することのできる三つの特徴である。」

 要するに、即自とはただそこに存在しているだけの存在のことをいうのである。目の前のコップとかえんぴつとか椅子を、とりあえずイメージすればよい。

 それに対して対自とは、自らの存在そのものを問題にするような存在のこと。サルトルの言い方ではこうなる。

「それが-あらぬ-ところのもので-あり」「それが-ある-ところのもので-あらぬ」


 対自存在は、今現在の自分のあり方とは違うあり方をめがけようとする存在のことなのだ。

 つまりこれは人間のことである。人間存在というのは、(ただそこに存在しているだけの)即自存在とは違って、常に己の存在それ自体を問題にして生きるような存在だ。

こういうことは人間という存在に特有の行為だろう。


⑵ 無

「「無」を世界に到来せしめる「存在」は、その「存在」において、その「存在」の「無」が問題であるような一つの存在である。いいかえれば、「無」を世界に来らしめる存在はその存在自身の「無」であるのでなければならない。」

 「無」とは何だろう。それは、対自存在(人間)が世界や自己に対して「ノー」と言えるということだ。「無化」しとうとすることができるということ。

人間は主体的に行動する特別な個別的な存在ということか。


「人間は、無を世界に到来させる存在である」

 

⑶ 自由

 というわけで、人間は常に世界や己を「無化」しようとすることができる存在であるということがわかった。

 というより、人間はそもそもそのような「無化」をしてしまう存在だ。

 サルトルは、ここにこそ人間の「自由」があるという。

「人間的自由は人間の本質に先だつものであり、本質を可能ならしめるものである。人間存在の本質は人間の自由のうちに宙に懸けられている。それゆえ、われわれが自由と呼ぶところのものは、《人間存在》の存在と区別することができない。人間はまず存在し、しかるのちに自由であるのではない。人間の存在と、人間が《自由である》こととのあいだには、差異がない。」

 しかし人間は、自分から選んでこのような「自由」な存在になったわけではないのである。べつになにもかもを「無化」したいと思って生まれてきたわけではない。だからサルトルはこう言う。

「絶対的な出来事、すなわち対自という出来事は、その存在そのものにおいて偶然的である。」

 気づいたら、我々は「自由」な者として、一切を「無化」できるものとして存在してしまっていた。

「私は自由であるべく運命づけられている。 Je suis condemné à être libre.」

「われわれは、自由へと呪われているのであり、自由のなかに投げこまれているのである。」

 さらにサルトルはいう。

 われわれは自由であるべく運命づけられている存在なのだから、われわれが生きるとは、選択するということにほかならない。

「人間存在にとって、存在するとは、自己を選ぶse choisirことである。」

「われわれは、われわれ自身を選ぶことによって、世界を選ぶ。――ただし、即自的構造において、世界を選ぶのではなく、意味において、世界を選ぶのである。」

「自由へと呪われている」とはまさに的を射た言い方だと思う。

自由とは良いもののようで実は恐ろしい、果てしないものだと思った。なぜなら選ばなければならないとき、選択肢が無限にあると人は混乱してしまうからだ。

そんな自由の中に投げ込まれている人間は主体的に「選ぶ」ことはできるが、果てしない世界の中でどういう生き方をするか、その幅は無限に近く広がっているように見える。

***なんだか寂しい気持ちにもなるが、人間はたんに感性的な生き物というだけではない、魂をもった叡智的な世界にも生きているからこんなにめんどくさいことになっているんだなという感想を持った。読書会にピッタリだと思う。本記事が「今日は読書会でどんなことしたの?」というおなじみの質問に答えるための一助となれば幸いである。***