「八日目」

絶賛試験期間中である。

そして絶賛風邪引き体調悪中である。

こんなに鬱屈としてしかも切羽詰まっているのにブログ更新している場合か!?

 

映画「八日目」をみた。

言っておくが、「八日目の蟬」ではない。

フランスかどっかの映画である。

中年男とダウン症の青年ジョルジュの他人コンビが旅をする話である。

お互い身内と一悶着ある身分なのだ。

なんだか映像もきれいだし、雰囲気も夢の中のようで美しかった。

ジョルジュや他の障害者もかわいらしく屈託ない様子が天使のように描かれている。

かわいらしい、微笑ましい、嫌な気分になることのない映画だ。

しかし、私は個人的に障害者をこのように扱ったり描いたりするのはあまり好きになれない。

障害者は素直で噓をつかなくて、まっすぐで純真といいたいのか。

比べるのもなんだが、24時間テレビを見たときのような薄ら寒い気分になる。

障害者の無垢な純粋さに触れて、健常者の魂も浄化されていくというような。

監督の意図はよくわからない。こんな単純な解釈ではいけんのかもしれないが。

 仮にこの見方がそこそこ真っ当だとして考えていくと、健常者がマジョリティであるこの世界には相変わらず「弱者という呪縛」があるのだなと思える。

 障害者の「聖化」をしてしまうのは、どういう心のメカニズムから生まれてくるのだろう。障害なんてもって生まれてきた人たちはかわいそうだから、いたわってあげなきゃという哀れみからきているかもしれない。自分たちと彼らとは違うということかもしれない。あるいはこんな大変なハンディキャップをもって生まれたのだから、心はきっと清らかに違いないという広い意味での因果応報的な考え方か。これらのどれかか、全部かもしれないが、どういう精神構造によるにしろ、こういうことをおおっぴらに語ることはまだまだ今の社会では眉をひそめられる。差別主義者などと非難されてしまうかもしれない。

 障害者の中にも性格の悪い人や根性のねじ曲がった人もいるだろう。ちっともかわいそうに思えない人もいるかもしれない。

しかしマジョリティの社会でそういうことをいってはいけないのである。

差別的な意見として封じ込める圧力がかかると思う。

 障害者の一律聖化のなかにこそ、マジョリティによる彼らへの差別意識が根付いているように思えてならない。

 「八日目」はかわいらしく、楽しい気分になる映画だったけども、マジョリティの心の奥底にこびりつく「当たり前」が浮き彫りになったと思う。

監督にそういう狙いがあったのかどうかはわからないが。

てか、自分はマジョリティのつもりだけど場所や時が変われば……?とかふと心細い気分にもなるかもしれんがそこまで書くと疲れるので今日はここまでな。

 

じゃ、さようなら。